斉藤フィーバー!

【高校】早実・斎藤、家族の支えでつかんだV!最高の恩返し
 早実のある東京都国分寺市に戻り、最高の笑顔を浮かべる斎藤(中央)。右は主将の後藤=撮影・鈴木健児
 生徒や学校関係者、地元の人らが詰めかけた優勝報告会であいさつする早実野球部員ら=22日、東京都国分寺市早実(撮影・鈴木健児全国高校野球選手権大会早実西東京)初優勝の原動力となったエース、斎藤佑樹投手(18)。その“快腕”を支えたのは家族の力だった。小学校時代、父親とのキャッチボールで投手としての土台を築き、早実に進学してからは同居する兄が炊事や洗濯などをサポート。そして、母は息子たちの2人暮らしを気遣って毎週末に上京し激励し続けた。斎藤は家族の思いに、全国制覇という最高の親孝行で応えた。
球史に残る熱投を演じた高校生右腕が育ったのは、ごく平凡なサラリーマン家庭だった。斎藤は1988年6月6日、群馬県太田市で、会社員の父、寿孝(としたか)さん(57)と母、しづ子さん(46)の二男として誕生。生誕時の体重は2950グラムだった。
寿孝さんが元高校球児だったこともあり、3つ違いの兄、聡仁(あきひと)さん(21)と一緒に、3歳からボール遊びをし始めた。「当時から活発な子でしたが、小さい犬を見て泣いてしまうなど、優しい普通の子でした」としづ子さん。
斎藤は太田市立生品小1年の時、地元の少年野球チーム「生品リトルチャンピオンズ」で野球を本格的に始めた。小学4年以上しか入れない規則だったが、聡仁さんがすでに所属。斎藤は「兄と野球がしたいから」と母に“懇願”。しづ子さんがチームと交渉し、特例での入団となった。
寿孝さんは野球を始めた息子2人と、球が見えなくなる夕方まで裏の畑でキャッチボール。当時から投手だった斎藤は、小学校の卒業文集で将来の夢について「メジャー選手(ニューヨーク・ヤンキース)」と記した。
中学卒業に際し、斎藤は地元の野球強豪校からの誘いを断り、「勉強もして人間的にも成長したい」と、超難関校の早実に推薦入学を果たした。しかし、県立桐生高の野球部員として群馬大会準決勝まで進出した聡仁さんは、大学受験に失敗。早大進学を夢見て上京し都内の予備校で浪人生活を送ることになった。
早実には野球部寮がないため、2人は東京都小平市の2LDKの部屋で共同生活をスタート。高校球児の斎藤を気遣い、家事や炊事は聡仁さんが担当。試合前などには元球児の経験を生かし、「豚キムチ丼」などのスタミナ料理でバックアップした。
両親も都会で生活する息子を気遣い毎週上京、家族の会話を心がけた。斎藤のトレードマークになった“青いハンカチ”について、しづ子さんは「柄が気に入ったので、上京したときに持っていった」と明かす。
斎藤は普段から両親とのメール交換を頻繁にする。21日の決勝再試合前、斎藤は前日に延長15回を投げ抜いたにもかかわらず、炎天下のスタンドで応援するしづ子さんに「お母さんの体調は大丈夫? 早く(試合を)決めるからね」と気遣うメールを打った。
そして早実初優勝。中学の卒業文集で、将来の夢について「荒木大輔2世」とつづった斎藤の夢は現実となった。聡仁さんも今春、私大に合格し大学生に。支え続けてくれた家族に、斎藤は最高の形で恩返しをした。
★ハンカチ業界も熱闘!売り上げ2割増し
同じハンカチが欲しい!! 斎藤人気が思わぬ方向に飛び火した。西武百貨店池袋本店では22日朝からハンカチ売り場のレイアウトを変更。似たブルーのタオルハンカチを最前列に陳列した。
「斎藤選手と同じものではありませんが、売り上げは通常の2割増し。暑い日が続いていることもあって好調です」(広報部)とホクホク。客からの問い合わせは20日ごろから相次いだという。
タオル販売の一広(愛媛県今治市)の営業担当者は「ここ数日、業界内では『どこのメーカーだ』と話題になっている。特定されれば大人気になるだろう」。ジバンシーのタオルをライセンス生産している内野(東京都中央区)は「残念ながらうちの商品ではないようだが、タオルハンカチの注目度はアップしている」と“ビジネスチャンス”を歓迎している。

ハンカチ王子のおかげでハンカチメーカーは大売り上げでした。
田中君と、斉藤君はプロに入ってほしいです!